死ぬということは、考えにくい。試しに考えてみたら、すぐわかります。
なぜ、死ぬということは考えにくいのだろう。
死ぬということが考えにくいワケ
あとしばらく死なないだろうから、さし迫っていない。おまけに、死ぬのは恐ろしい。それに考えようにも、手がかりがない。だいいち、そんなことを考えても気が滅入るだけだ。だから考えにくいのだ。
いちおう、そう考えられます。
でも、死ぬことを考えにくいほんとうの理由。それは、ものを考える「このわたし」が存在しなくなるから、なのです。
「このわたし」が存在しなくなったら…
ものを考えたり感じたりするのは、「このわたし」です。その「このわたし」が存在しなくなる。それが、死です。(言ってること、わかります?)だから、死ぬことは、考えにくい。
順を追って、考えましょう。まず、何かが「存在する」とは、どういうことか。
テーブルの上に、バナナがある。バナナは存在している。目に見えるし、触ることもできる。でも食べるとなくなって、バナナは存在しなくなる。モノはみな、存在したりしなかったりするのです。なるほど。
バナナが存在する。そう言えるのは、それを確認できるからです。もしも誰も、バナナを見ないし、触らないのなら、バナナの存在を確かめようがない。誰も、バナナが存在すると言えない。つまり、存在するものは、経験できるのです。
存在するものが、存在しなくなったら?経験できたものが、経験できなくなる。このことも、経験です。つまり、存在するものが存在しなくなることは、経験できます。この逆に、存在しないものが存在するようになることも、経験できます。存在はこのように、経験に結びついています。
人間も、存在していたのに、存在しなくなるかもしれません。人間も、見たり触ったりできる、モノです。誰か(親戚のおばさん)が死ねば、存在しなくなります。親戚のおばさんが死ぬことを、私は経験できる。人間が死ぬのは、「経験的な事実」です。
でも、「このわたし」が死ぬ場合は、話が違います。
そもそも、この世界のものごとを経験するのは、「このわたし」です。ほかの人間(親戚のおばさん)が死んでも、「このわたし」は存在し続けました。でも「このわたし」が存在しなくなれば、そもそもの経験の土台がなくなってしまう。そのことは、経験できないのです。
「このわたし」が死ぬことを、確かめられない。「このわたし」の死は、経験的な事実ではない。でも「このわたし」は、死ぬだろう、確実に。ならばそれは、「超経験的な事実」にほかなりません。
「死ぬこと」と「生まれること」は確かめようがない
死の反対に、生まれることを考えてみます。「このわたし」は、存在しなかったのに、存在するようになった。生まれたのです。
ところが、そのときのことを考えようとしても、ぼんやりして考えられません。生まれたあとには、「このわたし」がいて、世界もあります。でもその前は、「このわたし」がいないし、世界もなかった。何にもありませんでした。
いや違うよ。世界はあったし、お父さんもお母さんも、みんないたんだからね。そう、生まれたあとに言われたかもしれません。でも、確かめようがないことです。
死んだらどうなるか、もこれと似ています。死んだら「このわたし」はいなくなる。でも、世界もあるよ、子どもも孫も、みんないるよ、と言われます。でも、確かめようがないことです。
そしてなにより、世界はあるとしても、「このわたし」が死んだあとどうなるか、誰も知らないのです。
誰もが死ぬ。「このわたし」も死ぬ。それは、確かです。でも、死んだら何が起こるのか、死んだらどうなるのか、誰もはっきりしたことはわからない。誰もそのことを、経験しないからです。
でも、死んだらどうなるのか、知りたい。昔から人間は、そう思ってきました。そしていろんな可能性を考えました。そのさまざまなストーリーが、宗教のかたちで伝わっているのです。
先人からのプレゼント
キリスト教やイスラム教は、人間は死んでも復活する、と考えます。
ヒンドゥー教や仏教は、人間は死んでも輪廻する、と考えます。どちらも、人間は死なない、という考え方です。
儒教は、人間は死んだあと、もうこの世界には戻ってこない、と考えます。
日本人は、仏教や儒教や、もともとの日本の考え方がまざりあって、人間は死んだらどうなるかについて、独特の考え方をします。
どれも別々な考え方です。そして、どのように考えてもよいと思います。
死んだらどうなるか、死んでみるまでわからない。それなら、死んだらどうなるのかは、自分が自由に決めてよいのです。
宗教の「答え」
宗教の数だけ、人びとの考え方の数だけ、死んだらどうなるか、の答えがあります。そのどれにも、大事な生き方が詰まっています。人生の知恵がこめられています。
それは、これまでを生きた人びとから、いまを生きる人びとへのプレゼントです。
これより大きなプレゼントがあるでしょうか。
参照元:現代ビジネス
『死の瞬間、死後…どう考える?』ネットの声
それをきっかけに自分位の年齢でも死が身近にある事を実感しました。
後悔が無いように善い生き方を精一杯したいと思い、今も試行錯誤しています。
死ぬ事は嫌だけど避けようが無いものですから、生あるうちは自分が納得できる善い生き方をしたいと思っています。
人間が死ぬのはわかる、生まれ変わるというのもあるかもしれない、それはわかるんだけど、じゃあ例えば何回も生まれ変わったとして、今の私はどうなるの?その生まれ変わった自分を見てるわけでもなく、別の人間となってしまう、あるいは物?生物?となってしまうのか?自分はどうなっちゃうのか、自分という感覚がなくなることがものすごく恐怖だった。
哲学者の筆者の根底にも、それがあると思う・・・
悩み多い人生だけど、あれこれ思い悩めるのは、生きているからこそ・・・と自分流に解釈した・・・
自分という意識がなくなる事が死ぬって事だと思う。
生まれる前、自分っていう意識がなかった頃は全てのモノと一体だったのかもしれない。
死ぬと自分っていう意識はなくなるけど、また全てのモノ(宇宙とか地球とか千の風とか身近だった家族とか…)と一体になるのかも…意識がないから分からないけど…
確かに眠る直前、眠いなーというのは意識出来ても寝るその瞬間は寝て意識が無くなるのだから覚えてないわな。
多分、死ぬ瞬間もそんな感じで「怖い」「痛い」「辛い」って言うのは「眠いなー」っていう状況なのかも。
それより介護が必要な状態で生かされる方がよっぽど、あと饅頭怖い。
でもそんなことができたのはその日だけだったけどね。
そりゃそうだ。
死んだら俺は次どこかの王になると決めたらいい
以前にも言ったが確認のしようがない。
だから肯定も否定も出来ない。
つまり自由に自分で決められる。
死の恐怖は誰も確実な事がわからないから。
そもそも恐怖と思う人も居れば安息と考える人もいる。
そういうのも含めて人生に左右させるのが宗教や思想。
考えてもどうにもならない、くだらない考えばかりする自分への遺書を書けば少なくとも恐怖心は無い。
死後の世界は本当に死んでからなので、当然誰にも分からない。
毎日を悔いなく一生懸命生きようと思えました。
今やってる仕事も嫌で嫌で、毎日、辞めてやる〜!と叫びながら働いてますが、それも叫びながら頑張ってみます。それって、バチが当たりますか?
自分という意識が何処に行ってしまうのだろうなぁと考え始めたら眠れなくなった、、、なんて幼少時アルアルだったりするのだろう。青春朱夏白秋玄冬それぞれの年代で死の捉え方も微妙に変わって行くし、身近にあった死によっても変わるものでもあろうか。
宗教で確固たる死の世界観があれば安定した様相はあるようだが、よく例えに高僧に癌告知したらショックで一気に悪化して亡くなったなんて笑えない話もある。
自分も中高年になり母を見送り、まぁ死んだとしても先に逝った皆々がいてるらしいから悪くはないのだろう。死が怖いというよりは死に至るまでの苦痛が怖いんだよなぁって思うようになっている。
日々を大事に、そんな基本的な事なんだろうなぁ。
せっかく生まれてきたのだから、出来る限りストレスなく人生楽しめたらいいな。
のんびり過去や未来を気にしすぎず楽しく過ごしたいと改めて思った。
現実逃避で新興宗教のハシゴを続けている母親を見てそう思ったな。
結局、生まれ変わっても前世のことを何も覚えていないんじゃ無になったのと一緒じゃん。
それとも「自分の前世は何々で~」とか作り話でもこしらえる?
または「来世では自分はきっと王子様やお姫様になって幸せに暮らすんだ」とか妄想に明け暮れる?
生きてる間は生きてる間で納得のいく行動をしていれば死に対する恐怖はそんなにないかも。
人は必ず死ぬんだし。生まれる数だけ死の数が存在するんだから。
そんなに特別視することでもないかも。
それよりも残りの人生をどのように生きようかと考えた方がいいよね。
印刷業界にいた時は、こんな感じになっていた。
今は全然違う業界にいるが、こんな感じにはなっていない。日曜日しか休みはなく、休みの日もずっと勉強だが、試したい企画はどんどん出てくるし、出れば出たで更に勉強しないとならなくなるが疲れ果てて無気力になることは全くない。もちろん、ピンチがゼロではない。ピンチになってもどうにか切り抜けられる道が不思議と見つかる。
印刷業界にいたときは全く生き生きとしていなかった。今は生き生きしている実感がある。
印刷業界にいた時はゾンビのようだった。
今は人間らしさを保って生きているように感じる。仕事が楽しいし、職場に行くのが辛いと思わない。
印刷業界で生き生きしている人もいるので、あくまでも私が合わなかっただけの話。今の職場にもゾンビのような人はいる。
でも高校生の頃交通事故に遭い死にかけて、意識がないときに死の世界(だと思う)を見た。
それからは死に対しての恐怖がなくなった。くるなら来い、みたいな。
塔の上に自分と他に何人かいたのですが外から大砲を撃ち込まれるところでした。
すぐに後ろにあった分厚いカーテンから気配を感じ開けたら昔飼っていて既に亡くなったインコがいて「ここなら安全だよ」と教えてくれました。
ただの夢かもしれませんが音や感覚がリアルだったので大砲に当たってたらどうなってたのかと時々怖くなります。
生死を彷徨ってる自分を先に逝ったインコが救ってくれたのだと信じてます。
死んだらどうなるか決める自由があるのではなく、死を自ら確認できないから、
自分の信じた死後と本当の死のありようの違いを正視する必要がなく、
生きている間は好きな答えを正解と信じ込んでいて良い、というだけのこと。
どうやっても答え合わせのしようはないが、誰しもいずれ死の正解を経験する。
経験する頃には本当の死を人に伝えることも、自分に伝えて生き方にフィードバックさせることもできない。
見ている物が本物かどうか分からない。認識してるから存在を確認できるけど少しでも気を緩めれば砂上の楼閣として物質世界の存在は崩壊してる可能性もあるわけですね。
宇宙は最初からあったのか生まれたのか?
それさえも実際に見たわけでないので分からない。
「宇宙は破壊と消滅を繰り返している」という説を提唱しているそうです
以前の宇宙から残り続けているはずのホーキング・ポイント※を見つけ出すことが出来ればその根拠となるそうで
※ホーキング・ポイント:ブラックホールが消滅した痕跡
前世の記憶がわずかに残った状態で転生する方も居るらしいので、この世は転生=ループしているのかもしれませんね
その際、どこがスタート地点でとかはなく(メビウスの輪の状態)時間という概念はそもそも存在しないのかもしれません(カルロ・ロヴェッリ)
死んだ人は感じることが出来ないから。
苦痛から生き残って、あの時は痛かったんだと言うか、
幽霊になって生きてる人に死んだ時の痛みを教えるか
そうすれば、ある程度は想像出来るけど
自分はまだ死んでないのだから本当の事は分からない。
とか色々考える時はありますね。
幽霊は見えませんけど、人の雰囲気ってあるからね、悪い事、ネガティブな事を考えてる人は足元からズンと冷たく怪しく重苦しい。
逆に知識や経験に溢れて恐れを知らぬ力強い利他主義な人の雰囲気は空高く明るく華々しい。
悪霊がいそうな場所は重いし寒いしたぶんいると思うし、神社に入れば清らかな新春の空気のように清々しい。
いつもネガなことばかり考えてくよくよしてるからなのでしょうが。
とある方の受け売りですが、そう考えると多くの昆虫や爬虫類の一部は、「死ぬ事によって」冬を乗り越えている、とも言えます
生命を繋ぐ事が生物の正しい在り方だとするならば、それを自主的に諦める事ができる(或いは「人間の生み出した」社会によって諦めざるを得ない)「人間」という生き物は、どういった在り方が望ましいのでしょうか
与えられた命の、正しい使い方とは何なのでしょうか
「自我」と「主観」は、知識と共に人間に与えられた進化(社会性を維持できる知性を持つもののみ淘汰されず生き残った結果)であると同時に、星を損なわない為の、素晴らしい退化であるとも思うのです
敢えて自死の推奨をすることはしません
しかしながら、子孫を残さぬ事や、自死を、殊更に非難する事もまた、「社会倫理と生命倫理の狭間の歪み」そのものであると、私は思うのです
だから不安と恐怖を紛らす為に最近は、
睡眠が死の予行練習
と思うようにしている。
宗教によって考え方が違うのは分かりますが
死ぬあとにそれぞれ違うことは絶対にありません。
真の宗教があるのか。それとも進化論的には生きることも何も意味もなく死ぬ意味もないのか。
というデカルトの言葉を思い出した・・・
哲学者の筆者の根底にも、それがあると思う・・・
悩み多い人生だけど、あれこれ思い悩めるのは、生きているからこそ・・・
と自分流に解釈した・・・
洗浄が不完全な個体が稀に存在します。幼い子どもが前世の記憶を持っていたり、他者を凌駕した圧倒的な才能を秘めていたりするのはそのせいです。ちなみに幽霊は成仏できない魂ではなく思念です。
肉体は人類がオートで生産する事ができるのですが、魂を作るのは難しいのです。
天国や地獄は存在しません。良い、悪いは人間が定めた事なので。
輪廻転生は機械的でシステマチックなものです。
どんな人間の生も死も意味はあると言う事です。
ちなみに人間が黄金が好きなのは、魂が天に帰る時に発生する光が黄金色だからです。仏像なんか金色で出来てるの多いでしょ。うまく再現してますよ。
崇めるならこの世の全てを創造された
全人類の唯一の神を崇めるべきです。
聖書ではこの神以外の神はいないとはっきり書かれています。
石や木を拝むことは何の意味もなく愚かなことだとなぜ気づかないのかと世界のその他宗教は悪霊の働きによって作られた
書かれています。
この神の一人子が神であり人間であるイエスキリストです。
>キリスト教は人間は死んでも復活する
これはイエスキリストを救い主と信じる人がこの世の終わりの日に霊の体で復活します。その終わりの日が近づいているのではないかと言われています。
昔からそう。
この恐怖をなくすにはどうしたらいいのか。
今もこのコラムを読んで怖くて仕方ない
色んなことが、チャラになる。
木々に意識はあるか?
木々も生命に溢れているが意識はあるのか?
詳しくは、イエール大学シェリーケーガン著の【死とは何か】をどうぞ。
何故かと言うと、みんな親を選んで生まれて来ない。
生まれた時点で、裕福な家も有れば貧乏の家に生まれる事もある。
何故、こんな差があるか考えれば前世と繋がっていると言うのが論理的だと思わないか?
普通に歩いてたらジジババの暴走車が「踏み間違え」て突然・・・とかだったら決まられないと思うが?
そやから恐怖を生むんや
宗教はその恐怖を軽減させる方便やな
でも、死後の世界があると信じたい。
自分より若い、突然の友人の死、20半ばに、不条理な死を迎えた友人のお兄さん。
虐待や戦地で生まれ不条理に子供たち。なぜ?どうして。そのようなこと、
だけどそのあとは、全ての人は天国で永遠の命の中みんな、安らかな永遠の憩いのなかにいる、この世で苦しかった人たちも、安らかに休息している。
そして心はいつまでも、今この世で生きてる私たちの中に私たちと共にいる。
私はそう思います。
良い善い行いをしなさい。これに尽きる。
あの世の往き先立ち位置を決めるのは己が生き様次第てこと。
だけど巷の人々はこれを余りにも軽視してる。
自分さえ良ければ、自分達さえ良ければ、後のことなど如何でもいい。
これは最悪の生き方だと思う。
現在、2代目のジム・タッカー教授に研究が引き継がれているが、おそらく生まれ変わりを科学的に調査している、世界で唯一の公的機関だろう。
で、話変わって、自分の元同僚たちと生まれ変わりの話した事あったけど、そのうちの一人が、「ああ、俺の前世チャリンコだったんだよ~」って。爆笑!
皆さん、来世はチャリンコに生まれ変われる選択肢もありますよ!
眠ったら、寝ていることには気付かないですよね。
亡くなった人たちは、自分自身が死んだことには気付かない。怖いという意識はないのですよ。
かたや自業自得の人生の清算に追われて自らの浅はかさと愚かさを最期に知ることになる者もいれば、はたまたクソみたいな人生を開き直りさらにクソみたいな人生を続けて落ちるところまで落ちていく者もいる。
人生もまたいろいろ。
まぁ自分の死は経験できないが、他人の経験の中に残る自分の死に対しては、どういうものにすべきかを改めて考えて残りの人生を生きることも必要やねっと(笑)
自覚できないのだから存在があるとか無いとか、どちらでもいいこと。
あと生まれ変わるとか、天国・地獄とかは存在しません。
現実を見ましょう。
宗教を持つ人はその教えに習い、持たない人は自分の考えで良い。
人の生は死ぬためにあると言ってもいいと思っている。
なので、いつ死んでも悔いのないように日々を生きていきたいと思います。
死んだら『無』。それでいい。
死んだあとの世界の事は、死んだらそこから見せてもらうよ。
明日の事もわからないのに、生きてる時から死んだ後の事なんてわからないでいいよ。
後悔ないように生きたら、満足して死ねるからね。それでよし。
身体が産まれるのとは別で、そのナゾから私達の意識が生まれたような気がしています。
人が亡くなることと蚊を一匹殺す事と同じだと理解出来れば冷静に死を迎えられますよ。
決めたところで何が変わるわけでもなし
精々「その時が来たらすんなり死ねればいいな」と願うだけだわ
まぁそれで気が紛れる人はそれでいいんじゃないの
死後の世界があろうとその世界もいつか終わるでしょ
地球も太陽も銀河も宇宙もいつか終わるんだから
死んだ後がどうなるか分からないから、その宗教なりの解釈で説明していると思うのですが、キリスト教も、仏教も悪人は死後は地獄で苦しむし、いい人は天国に行くとか成仏するとか良い世界に行くとなっていて、そう教えること自体は良いことだと思う。(都合の良いように特定の宗教が解釈を変えない限りですが)
何が言いたいかというと、話しが少しずれるかもしれませんが、他人をだましたりせず、利他の行動を常に誰に見られなくてもやっていくことは自分を律していかなければならず、また自分自身を見つめていく作業なので、継続するのは困難を伴う事だと思う。死を迎えるときにいままでどうやって生きてきたかでその人の満足度が決まると思うので、そういう人たちは満足して亡くなる人が多いのではないかと近頃思います。
何もかも味わえない。楽しいことも。
生まれることも死ぬことも選べない。寿命を全うして死んだ先の事など、いくら想い宗教を信じてみたところで皆同じ。焼かれて土に還る。
生まれた日から死に向かって歩くのが命。
日々瞬間を大事に生きていくことが大切。
君の中で僕は生き続けるだろう
そう思えば何とかやっていけそうだよ」
昔のミスチルの歌詞が浮かびました。
誰かの記憶に残るのなら、忘却死は恐れるに足らず。
生まれ変わって、また初めからなんて本当に面倒くさい。
面倒や苦痛を感じない生物ならいいけど。
ミジンコとか…?
復活?生まれ変わり?
あり得ません!
しかし、死後の世界を体験したものは誰一人として存在しない。
臨死体験で死後の世界を語る人もいるが、それは、あくまで「死にそうになった体験」でしかない。
意識は生体の中に生じてるのであって、それ以上の者何もないよ
死後の世界があるのなら、そこには俺が生きるために殺された家畜と野生生物の恨みが満ち満ちているわけだが…。そっちのほうが恐ろしいw
同じ命なのに踏み潰したり食べるために殺したり。
食べられればまだいいけどそのまま廃棄とかになる鶏等やりきれないですね。
ただ同じ一つの命。
ふわーっという感覚で死ねるのかな。
その前の「あの世」のことなんか覚えてないからわからないだけかも。
で、この世としか意識してないのが実は「あの世」だったら死ぬもくそもないですね。
実は「あの世」の現世にこそ、天国があったり地獄があったり。
そう思えば、なるべくなるべく毎日楽しく過ごしましょう。それが天国。
永遠に眠るだけただそれだけです。
死んだ後の人生は自分で決める事は出来ません。
今果てるのが最良の機だとしたら、躊躇いなく思いきって成し遂げたいものです。
経験者より!
10年後、1000年後、宇宙が死滅する数1000兆年後に自分の意識はどこにも無い
それが死や
心臓を銃で撃ち抜かれた時・・・違う
不治の病に侵された時・・・違う
猛毒のキノコのスープを飲んだ時・・・違う!!
・・・人に忘れられた時さ・・・!!
遅かれ早かれわかる事になるけどな
管理人の率直な感想
みなさんは、エリザベス・キューブラー・ロスという人物をご存じでしょうか。
アメリカの精神科医で、死に向かうばかりの終末期の患者のために私財を投じて施設を作り、ホスピス運動により多くの患者の心に光を宿した人です。
終末期患者が、死の宣告を受けてから死の受容に至るまで5段階の心理プロセスを提唱しています。
日本の心理学者は、彼女と対談し「素晴らしい人柄だ」と人格者として高く評価しています。
『聖女』とも表現されていました。
そんな彼女ですが、自分の死だけは救えなかった。
「死後は、死の瞬間の苦しみが永遠に続く」という内容で現実を悟り、死に恐怖し発狂したという説がありますが、それは嘘で、個人的には自暴自棄になった印象を受けました。
脳梗塞により半身不随になり、晩年には自ら提唱した死の受容を否定しています。
「自分自身を愛しなさい」と言っていたのに「自分自身を愛せって?よく言ったもんだ。気分が悪くなる」とか「神様はヒトラーみたいだ」とか言い出し、意地悪ばあさんのようになってしまったのです。
キューブラー・ロスについては多くの著書が出ているので知っている人も多いかと思いますが、「死」というものは誰かから諭されるものではないと思うのです。
それこそ、この記事のように、「自分で決めていいんじゃん?」という考え方の方がいいと僕は思う。
それは決して自死を認めるわけではなく、自然に訪れる死に対してです。
死は誰でも怖い。でも100%誰にでも訪れる。
僕は無神論者ですが、生まれ変わりは少し信じているという都合のいい人間です。
だから仏教的な考え方に近いのかな。
人の死は早いか遅いか。幸せだったか不幸だったか。
僕はそう考えます。それくらいしか考えることがない。
自分の死が早かったり心残りがあるとしたら、来世に願いを託すと思う。
病床に家族や友人がいるならば「また会おうぜ、あばよっ!」が理想です。
実際に来世があるかどうかなんて、それこそ死んでみないと分からない。いや、死んでも分からないかもしれない。
でも今、そして死の直前に考えるのは自由。
ネット上の声を見ていると、いろんな人がいろんな考え方を持っているのが分かります。実に興味深い。
どれも否定できない。しかし肯定もしない。だってその人の自由なんですから。
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