全身の筋肉が衰える難病「筋萎縮性側索硬化症」(ALS)の女性患者=京都市=から依頼を受け、薬物を投与して殺害したとして、2人の医師が嘱託殺人の容疑で京都府警に逮捕された事件。
ALSの当事者や、生活を支える人たちはショックを受けつつ「どんなことがあっても障害者が生きることを否定してはいけない」と訴える。ALS患者「孤独感、孤立感に悩む」
《自身もALS患者で、NPO法人「境を越えて」理事長の岡部宏生さんの話》
とても残念な事件が起こってしまった。患者の背景はわからないが、このような依頼をしなければならなかったとしたら、非常に悔しく、悲しい。
私は48歳でALSを発症し、死にたいと何度も真剣に思った。でも社会の支援を受けて、こうして生きている。生きてみようと思えたのは、明るく前向きに他の患者や家族の支援をしている先輩患者を見たからだ。あんなふうに生きたいと思うようになった。
ただ「生きたい」と「生きていける」とは違う。介護保険や障害者の生活支援サービスを十分に受けられ、介護者を確保できなければ、すべて家族に頼ることになる。経済的なことも含めて家族に負担をかけたくない、と生きることをあきらめる患者は多い。私も介護態勢をつくるまでに時間がかかり、ぎりぎりのタイミングで人工呼吸器をつけられた。
「安楽死」には明確に反対だ。「安楽死」と同じように社会で使われている言葉に「尊厳死」があるが、自分でご飯を食べることや排泄(はいせつ)ができなくなるのは尊厳を失うことなどとされる。そうなのか。もしそうなら私は尊厳を失って生きている。
尊厳という言葉でくくるからわかりにくくなってしまうが、尊厳死を選ぶということは、自分はこういう状態なら生きていたくないということ、つまり自殺そのものだ。これから社会の中で安楽死が議論されるなら、自殺をどう考えるのかを明確にしてほしい。
今回はSNSを通じて患者と医師が知り合ったと報じられている。ALS患者は強烈な孤独感や孤立感に悩まされているので、その心の穴を埋めたくてSNSにつながりを求めることがあるかもしれない。コロナ禍では今まで以上に孤立しやすく、こうした傾向が強まらないか心配だ。
生きて行くことを支えるのが医師の務めでは
《ALSの母の介護経験があり、難病患者の生活支援に取り組むNPO法人「ALS/MNDサポートセンターさくら会」副理事長を務める川口有美子さんの話》
障害や病気のある人は大変でかわいそうだから、死んだ方がいい、という意見に賛同する人は世の中にたくさんいる。今回の事件で、さらにそう印象づけられてしまうことを懸念する。
活動的に生活しているALS患者はたくさんいる。その患者たちも発症当初は「安楽死したい」と言う。体は変化し、人の助けが必要となり、どうやって生きていけばいいのかわからない、と。
そんな患者を叱咤(しった)激励し、生きていくことを支えるのが医師の務めであるはずだ。どんなにつらい症状でも、たとえ治すことはできなくても、生きることを否定してはいけない。
私はALSだった母を介護し、みとった。障害や病気があっても、かわいそうではなく、支えがあれば絶望から立ち直れることを、母との経験やたくさんの人から教えてもらった。その後、生きていてよかったと患者が思えるような支援やその方法を広げる活動をしてきた。このような事件が起こり、本当にショックだ。
出典:朝日新聞
今回のケースは本人が苦しみから解放してほしく安楽死を選択し依頼しており障害者全員に対して死の選択しを設けろというものではない。
自身の事を置き換えると不安を感じる様な世論となっているのかもしれないけどやはり尊厳死の幅を広げるような働きかけなどは必要だと感じさせる事でした。
死んだ方がマシだと思えるほどの苦痛を受けていたと思うと胸が苦しくなります。
辛い思いをしている本人が「もう終わりにしたい」と望むのなら、尊厳死もアリだと私は思います。
同じ病気でも状況は人それぞれ、考え方が違って当然。
でも他の人の考えを認めないで
法整備を阻止するような事はやめてほしい。
でも…死ぬ権利も認めて欲しいと思うんですよね。難病や余命宣告を受けて自分が自分らしくなくなる前に…と思うのはいけない事なのかなぁ。何がなんでも生きないといけないのは苦しいと思うのですが。何にせよ選択肢はある方がいいような気がします。
お一人で生活をし、自立されている生き方を望んだ一人の人間としての生き方をどう捉えるか?だと思います。
NHKニュースでは、患者のお父様もでてきました。「最後死ぬ前に、目と目を合わせたかった。手を握ってやりたかった。」
と話されていました。
家族の話に少し違和感を覚えました。
今回の女性は、ご家族すら悩みを打ち明けることなく、お一人で羞恥や、苦渋を感じ耐えていたのでしょうね。
ヘルパーさんも、その気持ちに寄り添えなかった、、、。のであれば悲しく思いますが、心の中は誰にも分からないこと、、、。
検証が待たれます。
尊厳は本人が生きていく!という事なら全力で手伝わせてもらう
だけどそうじゃない人も全力で手伝わせて貰いたい
治らなくて性格的に手伝ってもらうのが苦痛でという人にも選択させてあげてよ。
そら生きてて欲しいよ
だけど辛いと感じるのも人間なんだよ
自分と同じようだなんて思わないで欲しいよ。
まわりの人、医師、尊厳死専門の人など議論を尽くした上でキチンと書類にみんのサインをしたうえでの尊厳死はあっても良いと思います。
マスコミはこれを「人の命に軽重はない」という、正面切っては反論しにくい錦の御旗にすり替えて、無制限な延命に対するまじめな疑問をつぶしにかかるだろう。何社かの記事を見たが、まさにその方向に進んでいる。
しかし、いくらマスコミが世論操作を試みようが、生命倫理の面からも医療経済の面からも、いつまでも無制限に医療(と呼ぶには抵抗のある行為を含めて)を広げるわけにはいかない。
医療は患者のためにある。患者本人が望む場合にはなるべく行うべきだろうが、本人が望まなければ他の選択肢も選べるようにすべきではないか。
議論を封じ込めるのではなく、真剣で自由な議論を持ちたい。
マスコミは議論を圧殺しないでください。
本人の意思で選べることが大事なのは理解できる。けど、当事者にとっては、死という選択肢が出来ることが、結果的に支援を受け辛くなることにつながらないか不安なのかも。もしくは、これから幸せを見出す可能性がある人まで、その場の勢いで死んじゃわないか心配だとか。本人も今は生きてて良かったと思ってるけど、死にたい時期があって、その時に尊厳死を提示されていたらどうなったか、、、とか考えてしまうんじゃないかな?
尊厳死の選択肢自体はは否定しないけど、生きたい人に対する配慮が必須な案件だと思う。
障害者だからという事ではなく、様々な場合があると思う。
選択肢がある、という事で生きていける事もあるのでは無いかと思う。
もし、この病の患者がもっと居て周りに存在するのが当たり前で周囲に負担をかけるのも当たり前の世界で、支援の手も同じくらい当たり前に多種多様にあって、互いに気を使わない状況ならば、死を選ぶことは無かったのではないか?
他に幸せを与えるコトが出来たなら。
前向きに生きようと思えた人が居た反面、死にたいと思う人がいる。
その差は虚しい。
私自身、事故で半身麻痺持ちなどになったけど、医師からよく喋れるようになりましたね、食べれるようになりましたねとよく言われる。幸いにも現在は、発音できない言い回しはあっても声は出せるし、固形物も食べられるけど(トイレにも行けます)。
でも、1人で何もできない状態で、生死も1人で決められなかったら絶望しかなかったと思う。肉体が思う通りに動かせない、記憶だって抜けるから意識だって自分のものではない。そんな中、魂くらい自由にしちゃダメかなあと思ったと思う。
これは本当に人それぞれ。他人は所詮、他人。「生きろ!」と言う以外に、できることを作った方がマシだと思う。
しかしグレーゾーンはつくることはできる
裁判で精査し 苦しい状況を回避してあげられる手段がそれしかない状況であったなら
情状酌量で無罪になる解釈ができるグレーゾーン
きっちり安楽死はダメと定めるのではなく場合によっては安楽死も認められる解釈の余地は必要かもしれない
ただし悪用すれば罪はさらに重くなるという釘を刺した上で
もし尊厳死が家族の同意が必要な制度になってそれが得られなかったら、死なせてくれなかった家族を憎んでしまうかもしれない。
平常時でも人間同時に矛盾した要望を持つことはある。
その時本人がそういう気分と意思で同意したならそれが答えでいいだろう。
殺人事件で実刑を言い渡された人が保釈されてる時点でもはや法治国家ではないかもしれない。あ、控訴中だから確定はしてないけど元事務次官な。今も元気に外で暮らしてる。日本は殺人の被告でも保釈されるから周り気をつけろよ。
そこに障害云々は関係ない、ALSだから生きろ、自殺は認めないというのは押しつけで傲慢
自分の命は自分のものだ、他人が一律に決めるものではない
本人は死を選択したいほど苦しんでいた。綺麗事ばかりでなく、尊厳死について、日本はもっと議論するべきだと思います。
正反対の死生感があることを受け入れないのも身勝手でエゴだと思うんですけどね。
苦痛ある人が死に助けを求めることを悪だとは思わないです。
誰のために、何のためにその苦痛を我慢して死を待つのか。
色んな考え方があって良いから、多くの人は選択出来る様になって欲しいと願っているのに。
最終的には目蓋すら開けられなくなって、文字盤すら使えなくなる
でも頭と五感ははっきりしてる
その状態でどうなのか…もし自分でも想像がつかない
外国でも安楽死、尊厳死を認めてる国でも、安易な死が選ばれないように手続きはとても慎重に進められるし、ただ「自分らしい最期を」というだけで認められるほど軽いものじゃない
それを「生きるべきだ」と押し付けるのは酷だと思います。
「生きたきゃ生きる、死にたきゃ死ぬ」で良いじゃないですか。何かを悟ったように偉そうに語らないでほしい。
そもそも運命なんて人それぞれ。泣いても喚いてもどうにもならない事はあるんだし。
ほんとこういう奴ってムカつく。
生死に関する個人の選択の自由はあっても良いと思う。
個人によって障害の程度も周囲のサポートや状況も違うはず。そのなかでの本人の強い希望であればいずれにしても尊重されるべきだと思う。
健常者は自死する事が出来るし、それは罪ではない。逆に言うと自死する自由がある。
障害や病気になったら、無理やり生きろみたいなことは押し付けだと思う。
健常者同様の選択肢があっていいと思う。
人工呼吸器をつけたALSの方に何人もお会いした。生き甲斐を見つける方もいれば、家族ごと落ちていく方もいる。
当事者にしかわからない事がある。
障害のある無し関係ないのに口を挟むから余計な事になる
常に注目浴びてようとして、そういう利権やビジネスかと疑いたくなる
通常では治らないとんでもなく苦痛を伴う病気なんだから、本人が自らの生を選択する権利を奪うなよ!
それに人それぞれ考え方も価値観も違うと思います
医師もです
選択出来る権利はあったら良いと思います
どこをどうやったらそういう話になるのか。
ALSの寿命は発症・病名を特定されてから約3−4年です。
この“寿命”と言うのは“呼吸する筋肉が動かなくなり(喉の筋力がなくなる)呼吸不全で死ぬ”と言う事です。
このタイミングで『呼吸器を付ける』ことを選択すればこの寿命は伸びます。
手から筋力がなくなる人もいれば足の筋力からの方もいて、喉が先にくる人もいて、それは人様々なのです。
この病気は“筋肉が動かなくなる”だけで“皮膚の感覚” “意識”などは全く衰えず、健常者と同じ状態なのです。
蚊に刺されれば痒いですし お腹もすきます。
長くなりましたが、亡くなられた方は11年から患っており、お一人だった。とあります。
かなり、長期に頑張られたのだと想定します。
この頑張りは周りでサポートしている方も同様です。
そんな中での“もう終わらせて欲しい”と言う想い。
私、1個人としては、どこか、理解できる気がします。
死を選ぶことに否定できない。
間近で見ていて辛いですし、この苦しみは他人に叱咤激励されて乗り越えられるものでもありません。
今後、本人が望むのであれば「死」を肯定する法律を作ってもいいと思います。これは綺麗事ではありません。自分がこの病気になったらそうしてほしいと思います。
この感覚は見とった家族しかわからないでしょう。
言葉では言えない苦痛を、本人には身体的に、家族には精神的に与えます。
もし読んでる方にALSを看護する家族がいましたら、自発呼吸ができなくなった時に、どうか人工呼吸の選択をしないでください。
その選択は地獄行きの切符を買うのと同じです。
元々は右手が何かおかしいな?くらいでしたが、現在はバイパップという呼吸を助ける機械をずっとつけて生活しています。
コロナの影響もあり帰省もままならない状態で、何とも言えない気持ちでこちらのニュースを見ました。
色んな支援を受けてはいるものの母メインの老老介護の日々。
次生きて父に会えるのか分からず、長生きはして欲しいものの、苦しい思いはさせたくない気持ちもあり、医師の方を責める気にはなれません。
そこまでの人は経済的にも人間関係的にも相当恵まれていないと無理だ。誰もがそんなに恵まれてると思うなよと怒りすら覚える。
闘病期間は長くはありませんでしたが、時間の経過がとても長く感じる本当に辛く悲しい病気です。本当は、在宅で過ごさせてあげたかったのですが、家族みんなの協力が不可欠です。面会に行っても、本当に本当に辛かった…。自分なら、生きてたくないかと。お義母さんもそう思っていたと思います。これはきっと身近でこの疾患と関わった者にしか分かり得ない苦悩と思っています。
我が国は法治国家である以上、罪は負わなくてはいけない。
でもこの患者さんはきっと二人に感謝して逝かれたのでしょう。
何が正しく何が間違っているのか?
我々に突きつけられたものも大きい気がする。
他人の安楽死したい、という気持ちは、誰にも否定出来ないと思います。
けれど、最後は「家族のつらさを何とかしないと本人がもっとつらくなる」という視点で動いている。
家族が苦しんでいると患者は「もうしわけない」と感じる。だから患者と家族とでケンカになる。「こんなにも心配しているのに」。どちらも同じことを言っているのだ。レスパイト入れて何とかなる問題ではない。
もっと深く考えた法整備を願う。
その選択は地獄行きの切符を買うのと同じです。それは、患者本人が望むかどうかによるのでは…。本人がまだ生きたいと望むなら、一度付けたら外せない事を説明したした上で(というかもっと症状の軽い時から説明を受けて意思決定しとくのが望ましいけど)付ける事も非難されてはならないと思う。
他の病気を持っていたため、ALSと診断されたのは呼吸器不全に陥り呼吸器を付けた後でした
そこから12年長い苦しみの日々が続きました
こうなると分かっていたら、呼吸器をつける選択を選んでいなかった、なぜ死なせてくれなかったのと母は絶望の日々を過ごし、私達家族も本当に辛い毎日でした
この病気を支えていくには本当に恵まれた状態でなければ、希望を持って生きることは不可能だと思います
誰もがその支えを得られる環境にはないことも現実です
私はこの患者さんの気持ちが痛いほどわかります
私の母ももし許されるならば同じ選択をしたのではと思います
人にはそれぞれの思いや考えがある
それを選ぶ権利も当然あるべきだと思います
タンの吸引は苦しく一時左半身麻痺だったので背中が痒くてもかくことは出来ず言葉も出せず苦しい1ヶ月でした
私は1ヶ月で呼吸器を離脱しその後リハビリで手足も動き普通の生活に戻りましたが、一生あのままならもう生きていたくないと思うでしょう
安楽死を願った方もそれに手を貸した医師も責める気にはなりません
苦しくても耐えて生きろとは苦しみを知らない人の言葉だと思います
カラダは動くから。
だけど自分の意思があるのに、自分では死ぬことすら出来ないってなったら、絶望的な気持ちになる。
意識がある中で尊厳死を選択するなんてことがなくなるように!
負担がかかるから尊厳死を選ぶ選択がおおいのでは?
もちろん努力で治るのなら努力すべきと思う。
医療の助けを借りる事も否定しないが、年齢もある程度は行ったし、あまり長く苦しみたくない。
特に身近な人が延命処置で3日苦しんだ姿をみたら、あのまま眠るように亡くなったほうが辛くなかったろうにと申し訳なくなる。
大自然では生きるための自然淘汰は当たり前なのにな。
死因は呼吸器不全。
呂律がまわらなくなったのが始まりです。
療養中、胃瘻もなし。人工呼吸器もなし。
死が近くなった時、俺は死ぬのか?と振り絞ったような筆圧で殴り書き。
なにいってるの?そんなことないよ。と、答えるのが精一杯でした。
私はいつも思います。
尊厳死、もう本当に議論すべきです。
早く議論してください。
話せない、食べられない、歩けないのは勿論まばたき以外は微動だにできない
辛くて流れた涙を自分で拭うことすらできない
排便すら自力で叶わない
でも意識は完全に清明
苦痛は筆舌に尽くし難いと想像します
どなたかがおっしゃった“地獄への切符”…
女性はまさにそう感じていたのかもしれません
彼女が死を望んでいたとしたら、少なくともその思いは個人的には理解してあげたい思いです
そしてそれを遂げるにはこうする他なかったことも…
合掌
日本は両極端なんだと思うな。どちらか一方の選択肢しかないというのが日本の最大最悪の欠点だろう。もう少し融通はきかないものだろうか。
まだ生きていたいと言う方もいれば、もう良い十分だと言う方の両方がいて何が悪い?生きる事が何より大切だと言い切る理由が分からんね。
自分も、もし今後、認知症になって症状が進んだり、脳死や意思表示が出来なくなる様な状態になったらどうしよう?と考える事があるが、今でも出来る限りの用意やお金を用意しつつ、子供などの家族に多大な迷惑をかける様な事になる様ならもう良いやと思っているよ。勿論、子供にも無理しなくて良いからね、決して気にしない様にと折に触れて言っているけどな。
生きたければ生きればいい、その一方で、やはり耐えられない人もいる。
そんな、拷問のような苦しみから逃れる道をつくるのも必要だと思う。
宗教観などもあるが、生きることが最善だという人もいるだろうけど、もう今は死ぬ時も自分で決めても良いと思う。
ですが、今回逮捕された医師自体がなかなかヤバイ思想を持っている人物だという記事も見ます。
この女性にとっては尊厳死であったとしても、人の尊厳を利用してこの医師が自らの主張や思想を肯定するための殺人であってはなりません。
難しい問題ですが、先々の日本における尊厳死の扱いのためにも法の場でしっかり解明してほしいと願います。
だからこそ選択できる自由が必要なのではないだろうか。
この方は生きなければいけないという考えなのだろうが、死にたいと思うのも個人の自由。
法整備して安楽死は認めてほしいけど、金はとるわ社会のために処刑してやってあげてるなんて言う医師には処置されたくないな。
されたとしても実刑にはならんでしょう。
身体が健康な人に自殺に協力するように依頼されても罪は発生します。
この件は尊厳死がどうこうではなく、身体の病気のせいで生活や将来が見えなくなったということです。社会のサポートがもっと充実していたら少なくなると思いますが。安直な選択ではなく、全員で社会をより良くする選択が理想です。
耐え難い苦痛、治癒の見込みがない、強度の認知症や精神疾患で何も分からない、そういう人達自身や周囲の人間を救うために、安楽死の議論から目を逸らしてはいけないのです。
現状、政権は票田である高齢者を安楽死させるような法案を作れません。もっと若い人達が投票して、自分たちの未来を真剣に議論してくれる代議士を選ばないといけませんね。
身体が健康な人に自殺に協力するように依頼されても罪は発生します。
この件は尊厳死がどうこうではなく、身体の病気のせいで生活や将来が見えなくなったということです。社会のサポートがもっと充実していたら少なくなると思いますが。安直な選択ではなく、全員で社会をより良くする選択が理想です。
優勢思想の持ち主は多くがエリートであり、断種・「間引き」の対象の線引きを恣意的にするからだ
彼らが非生産的とするのは障害者や老人だが、昨今のAI技術の発展を見るに、中下層の人間もAIにより代替え可能として「間引き」の対象になり得る
そして、自分たちが劣った存在すべきものだとという認識は、当然当事者たちには発想し難い
まあ、ヨーロッパ人が黒人や植民地のネイティブにしてきたことやナチスの所業を考えてみればよい
博愛や人権、生命の尊厳なんぞは所詮人工物に過ぎない
個人の意志を尊重してどちらでも選べる環境作ればいいだけの話
死ぬことは悪じゃない
子供や妻や友人の顔も分からないなんて生きてるとは言えない
死んでないだけ
いろいろな人がいるだろう。
今回のケースはまだよくわからないが、本人と家族が納得しているなら、安楽死と言う選択肢もあってもよいかなと思ったりする。
ちなみ私だったら、人工呼吸器を使用しないと生きていけないようでしたら、人工呼吸器はつけずに、麻酔か何かで眠らせて苦痛なくしてほしいかな。
テレビで患者さんとその家族の特集見たけど、患者の女性は海外での安楽死を希望して結局実行されて亡くなりましたけど、
何年も続いた痛み、苦痛から開放された彼女を見て、
私はありだと思いましたよ。
それこそ植物人間、人工呼吸器に頼れざるえない前にしっかりと意識がある前に意思表示しとかないととも思いましたよ。自死さえも出来なくなりますもの。
別に生きたい人はなにがなんでも生きたらいいわけで。
辛くて苦しくて耐えられない人の気持ちまで踏みにじるのはいかがなものか。
そのうちDNRまで否定してきそうで怖いわ。
だれも障害者は死ねばいいと言ってるわけではない
家族を病気で亡くした人たちが苦しい最期を見たからこそ、死を望んだ患者も医者の2人も責められないと言ってるだけなのに
それがない人間を目の前にしても「生きろ」と言えんのか?
あるいは強要できんのか?
あらゆる問題において代表者面している奴ほど同じ境遇の人間の総意を得ていると勘違いしている。
人それぞれに異なる想いや意見がある。
理解が深ければ極端な意見を言い切ったりすることなどない。
なぜなら「議員」なんだもん
議員なった時点で制度整備は職務な訳だから、訴えることで責任満たされる単なる団体の長とは違う
厳しいこと言うようだけど議員とはそう言うもんでしょ
議員にまでなり、生きていくという強い意志が保てる状態ですが…
今回の件はなんだかお医者さんを殺人と言うにはなんだか納得いかないというか…責めることは出来ないと思うんだよね…
結局こうして発信できる人達は弱者の中の強者であり弱者の中の弱者の気持ちは理解していない。
所詮自分の立場でしか物事を考えられないエゴイストに思える。
ほんと、その通りです。
一部の意識高い系ばかりが自己満足的に突っ走ってどんどん「弱者の中の弱者」は置いてけぼり。
それで世間一般も「解決した」と安易に忘れ去るから尚一層、質が悪い。
議員さんは「障害者が生きることを否定してはいけない」と言っているだけ。
でも、「障害者」で一括りになんて、絶対できない。
家族がいて、仕事があって、介護してくれる人がいる(お金の心配がない)、それなら生きていこうと思うでしょう。
例えば、家族もなく収入もない、回復の見込みがなく生活保護に頼ってただ生きていくだけだったら、自分も安楽死を選ぶ。
それがない人間であっても生きる道があるような社会を、みんなで考える必要があるんじゃないだろうか。
本当に困窮している人間は発信することすらままならないからな。
今回の事件は御本人が望まれた、と言うことですよね。
本当に論点がズレてると思います。
だから障害者は、、、に繋がるから
この意見を上げる前に周りの人間も中身を精査しようよ
って、このニュース見た時に思った
この方達の言うように病気や障害を持ちながらも生きる希望を持って生きておられる方もいれば、それを見いだせず絶望されている方もいる。
その違いこそが個人の尊厳。それを理解し、道を示すことができる方法があってもいいのでは?という話。
同じ病気を抱えて生きていたり、永年連れ添ってきたとはいえ、他人の思いを理解し、尊重していないように思う。「あなたとは違うんです!」みたいな感じかな。
とはいえ、自死の問題も、尊厳死の問題もそこに至るまでに絶望から抜け出し前を向けるように支えることは大切だと思います。
この件と障害者の「生」を否定することとはまったく次元が違う。
健康であってもなんらかの理由で死を選ぶ人はいる。
自死を選んだ患者さんは死ぬことすら自分でできない方だったから誰かに依頼するしかなかった。
そして医師としてのキャリアを捨てる結果になるとわかっていても手を貸したお二人の医師の方の心情を思いやってしまう。
相当な覚悟だったと思われる。
身近でもいました、特別扱いされて当然みたいな親子をね…
だからこんな障害者はきらい
できるなら、関わりたくないと感じてます
決して差別ではありません
こういうひねくれた障害者が嫌いなだけ
ただ先にレスされた方と同じく障害があるから特別扱いをしろという勢力には辟易している
それに付随して、朝日の記事だけどきちんと障害と記述しているのは好感が持てる
障がいとか障碍と記述させる風潮も嫌いだ
ご本人が安楽死を望み、それに応えた医師がいた
それが事実
論点がずれてます
生きたいと思える環境だから“生きたい”と思えるのであって、亡くなられた方はそう思える環境ではなかったのでは?
勇気付けたいとか思うでしょうし、発信したいのは理解できますが、“生きたい”と思える希望が持てる環境になれば、自ずとこう言った事もなくなるんじゃないかな?
簡単な事ではないでしょうけど・・・
病によっては「生きる」事が慢性的な激しい痛みを伴ったり、絶望に近い事もあるし、尊厳死や安楽死の速やかな法制化は必要だと思う。
ただ、そこに優生思想が絡むと恐ろしい事になるし、「生きたい」思いは何よりも尊重されないとと思うけど。
「死にたい」という思いも尊重するべきだと私は考えています。
今回は本人が死にたいを選択し、医師が依頼を遂行しただけのこと。
あなたは生きたいかもしれない、だからと言って全ての患者が生きたいと思うのかは分からない。わざわざ出て来て喚き散らすのはクレーマーと同じ。
今回の件は、患者本人が希望した事。
まわりがすすめたわけじゃない。
同じ病気でも生きたい人は頑張ればいい。
頑張っても先が見えないなら尊厳死を選ぶ権利があって然るべきなんです。
(もちろん、誹謗や中傷でまいってしまって発作的に鬱状態で死を…というのはこの場合違うとは思うけど)
自分が同じ病気で生きてるからって、それを押し付けず
こういう支援もありますよ、って教えるだけにとどめて欲しいな
支援を受けられたとしても、それを拒否して人生を終わらせたい、って人もいると思う
いくら苦しくても生きたいと願うのもひとつの生き方。苦しみをなるべく少なくして安らかに最後を迎えたいと願うのも、またひとつの生き方。
もし自分なら意思の疎通があるうちに安楽死を選びたい。個人の考えです。
当然の批判だと思う。
でも”障害当事者の「生」否定するな”って、簡単に命を維持するなって意味もあるというのが今回の事件。
「生」の持つ意味の個別化、多様化。終末期の選択。真剣に考えていかなくちゃいけないのではないだろうか?
だけど、難病を抱えていても孤独だったり辛すぎて生きていたくないとか、家族に迷惑を掛けているんじゃ無いかと悩んでる人はいるはず。そういう人は、誰かに否定されたのではなくて自分の意思で今回のような結果を望んだのだと思うよ?
亡くなった女性、1人では殆ど何も出来ない状態でヘルパーさん頼りで24時間管理されてたっていうし。そんな体で力と勇気を振り絞って安楽死の依頼をしたのかと思うと、凄いなと思うよ。SNSを開くまで何十分、一文字打つだけで何十分て掛かったと思う。そこまでしての信念なんだからさ。
論点をムリヤリ障害者差別に繋げようとしている気がする。
論じるべきは、障害者の有無に関係無く、安楽死についてであるべき。
自己決定できる選択肢の一つとして、安楽死があってもいいのではないか?という議論であって、ALS(に限らない)になったから死ぬべきなんて思う人はそんなにいないと思います。
むしろ「否定するな」このような発言は今回自分の意思でお亡くなりになった方を蔑ろにする、否定する発言だと個人的には感じますし、亡くなられた方は最期までよく頑張られたと認めてあげたい。
日本で尊厳死が議論されない、しにくい風潮は凝り固まった考え方をされる団体がいることが一つの原因ではないかと思います。
残される側も辛いですが、それぞれの本人の意思を尊重しても間違っていないことだと思います。
日本の、安楽死に対しての考え方が少しでも変わり、本人の意思に寄り添ってくれるお医者様が増えることを願います。
介護の環境が良く生きたいと思う人もいるし、辛いと思う人だっている。
管理人の率直な感想
僕はALSの患者さんを一人知っています。
正確には「知っていた」・・・過去形です。
その人は生前、「こんな姿を誰にも見られたくない」と、家族以外の面会を拒み続けました。
僕が最後に会ったのは、まだテーブルに掴まり立ちできる程度の症状のとき。
その人も「死にたい」という意思を度々発信していました。
僕らは誰も生きることを否定なんてしていません。
本人の意思を尊重する選択肢があっていいのはないかという議論です。
何言ってんだか。
ネット上の声でも、実際にALS患者の家族の介護に携わった人が「人工呼吸器は地獄への切符」と表現しています。
これがどんなに重い言葉か。
「生きて行くことを支えるのが医師の務め」という意見を通すならば「じゃあ救ってくれよ、治してくれよ」と通したくなる。
今の医学では治すことが出来ないんです。
ただし、この事件の医師に関しては確かに問題はある。
医師の一人は障害者や高齢者を社会悪だと捉える危険な思想を持っている。簡単に言えば『間引き』の感覚です。
もっと人間らしく考えたい。
この記事で主張している方々を「弱者の中の強者」「タチが悪い」と言っている方がいました。
僕はそれに対し否定しません。
押し付けてはいけない。
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